分子から生命現象へ
生命現象の最小単位は細胞であり、その物理的実体は、タンパク質や核酸といった生体高分子、そして水、イオン、脂質などの低分子からなる混合物である。このような混合物が引き起こす化学プロセス全体が生命現象として顕現する。しかし、その分子論的メカニズムの解明はいまだなされておらず、現代科学における最重要課題の一つである。本研究室では、細胞内で起こる生体分子の化学プロセスに注目し、分子シミュレーション的手法に基づいて、生命現象を原子レベルからボトムアップして物理化学的に理解することを目指している。最終的に、基礎科学においては、分子構造から“生命とは何か?”の問いに答えることに、そして、産業応用においては、分子物性に基づいて“特定疾患に対する新規薬剤や診断法”の開発に貢献したいと考えている。
ヘモグロビンサブユニットへの酸素分子侵入経路の統計的解析
ヘモグロビンはαサブユニットとβサブユニットにより構成されており、各サブユニットはヘムポケットに酸素分子を取り込むことで酸素分子運搬機能を発揮している。ところが結晶構造では、外の溶媒からヘムポケットへと酸素分子が通過可能な広さの通路は存在しないため、結晶構造により酸素分子が出入りする通路を特定することは困難であった。そこで変異体ヘモグロビンによる実験や分子動力学計算による解析が行われてきたが、遠位ヒスチジン近傍に存在するヒスチジンゲートと呼ばれる通路が主要な経路とする説(例えばJ. Biol. Chem. 2011, 286, 10515)と、サブユニット内部にある多数の空洞を経由する複数の通路が主要な経路とする説(例えばJ. Am. Chem. Soc. 2012, 134, 11177)の2つが提唱されていた。
図1 ヘモグロビンのαおよびβサブユニットへの酸素分子進入経路の可視化結果。緑色の球(surface cluster)は酸素分子の侵入口を表す
酸素分子の侵入経路を特定することを目的として、酸素分子を多数溶解させた水溶液中にヘモグロビンを配置した系について、分子動力学(MD)シミュレーションを128回繰り返し実行した。結果、ヘムポケットへの酸素分子侵入を数百回観測することができた。クラスタリングを用いて酸素分子の侵入経路を統計的に解析することで、酸素分子進入経路を高精度で特定した(図1)。得られた通路はα、β両サブユニットにおいてサブユニット内部の疎水性空洞を経由する通路がメインであり、ヒスチジンゲートを経由したものはわずかであった。またβサブユニットにはαサブユニットに存在しない大きな入り口が存在しており、酸素分子侵入はβサブユニットの方が2倍程度早く生じる実験結果を分子レベルから説明するものである。
【参考文献】
- M. Takayanagi, I. Kurisaki, M. Nagaoka, J. Phys. Chem. B, 117(20), 6082 (2013).
ヒトヘモグロビンの非部位特異的アロステリック効果
―タンパク質の機能発現機構の新しい可能性―
タンパク質アロステリーは生命活動にとって不可欠である。これまで、2つの四次構造状態(T状態およびR状態)をもつヒトヘモグロビン(HbA)のアロステリック制御は、タンパク質のアロステリックな構造制御のパラダイムとなってきた(高等学校「生物U」必修事項)。特に、基質分子である酸素分子(O2)が「部位特異的な」ホモトロピックエフェクターとして振る舞うこと、つまり各サブユニットのヘム鉄に逐次的に結合することで、四次構造制御を引き起こすという考え方が、長い間、広く受け入れられている。しかしながら、我々は、「部位特異的な」アロステリック効果が必ずしもO2アロステリーの唯一のメカニズムではないことを示した。
実際、大規模な分子シミュレーションの解析結果から、高いO2分圧の水溶液環境では、O2が、直接ヘムに結合しなくても、T状態からR状態への四次構造変化を促進することが明らかになった。これはO2が、これまで知られていた「部位特異的な」アロステリック効果に加えて、「非部位特異的な」アロステリック効果をもたらすことを示唆している。この「非部位特異的な」効果は、タンパク質複合体のサブユニット間接触に影響を与え、四次構造変化に対して、従来から受け入れられている「部位特異的な」効果と相補的な役割を果たすはずである。こうした解析は、HbAのアロステリック制御を、分子論的視点から包括的に理解するためのマイルストーンになるに違いない。
【参考文献】
- M. Takayanagi, I. Kurisaki, M. Nagaoka, Scientific Reports, 4, 4601 (2014).
トロンビンの酵素活性化機構におけるNa+の役割の再検討
生体内で血液凝固因子として働くトロンビンは、Na+特異的な酵素活性を示すことから、その酵素活性はNa+結合によってアロステリックに調節されると考えられてきた。しかし、X線結晶構造学的研究によると、Na+が結合してもトロンビンの構造はほとんど変わらない。更に、Na+はトロンビンの基質認識部位近傍に結合するため、Na+と基質内の正に荷電した残基(例:Arg)との静電的斥力相互作用によって、トロンビン−基質複合体形成が妨げられる可能性がある。これらの事実から、Na+の結合は実際にはトロンビンの酵素活性に無関係で、むしろトロンビン−基質複合体形成を阻害し、機能発現を制御することが示唆される。そこで我々は、MDシミュレーションを用いて、トロンビン−基質複合体形成におけるNa+の効果を調査した。
図2 S1ポケット変形の平均力ポテンシャル
まず、140 mM NaCl水溶液中においてS1ポケット変形の平均力ポテンシャルを計算し、S1ポケットの熱力学安定性を解析した結果、Na+の結合は活性型S1ポケット形成の安定化に影響しないことが明らかになった(図2)。また、Na+の結合によって、トロンビン−基質複合体形成に要する仕事が3 kcal/mol増加した。つまり、当初の予想通り、Na+の結合という部位特異的な相互作用は、トロンビンの活性構造の安定化に無関係であり、また、トロンビン−基質複合体形成に不利であることが示された。
これを踏まえ、Na+によるトロンビンの酵素活性化機構を再検討した。140 mM NaCl水溶液中におけるトロンビン−基質複合体形成過程のMDシミュレーションから、Na+結合空洞は、トロンビン−基質複合体形成に伴うS1ポケットの脱水和において重要な役割を果たしているという知見が得られた。その上、140 mM XCl(XはLi+、Na+、Cs+のいずれか)水溶液中におけるトロンビン周囲のカチオン分布を解析した結果、Li+とCs+はそれぞれ、その過剰なあるいは不十分な分布によって、トロンビン−基質の遭遇複合体形成を静電的に阻害する一方で、Na+はトロンビン周囲に適度に分布することによって、遭遇複合体アンサンブル形成を最適化し、会合反応を最大化することが示唆された(図3)。Na+によるトロンビンの活性化は、従来考えられてきた部位特異的相互作用ではなく、トロンビン周囲へのNa+の分布という非部位特異的相互作用によって調節される可能性が考えられる。
図3 トロンビン周囲のカチオン分布
【参考文献】
- Kurisaki, M.Takayanagi, M.Nagaoka, J. Phys. Chem. B, 119(9), 3635 (2015).
- Kurisaki, C. Barberot, M. Takayanagi, M. Nagaoka, J. Phys. Chem. B, 119(52), 15807 (2015).
- Kurisaki, M. Takayanagi, M. Nagaoka, J. Phys. Chem. B, 120(20), 4540 (2016).
- Kurisaki, M. Nagaoka, J. Phys. Chem. B, 120(46), 11873 (2016).
水溶液中ミオグロビンの振動エネルギー緩和過程に関する理論的研究
図4 ミオグロビンの立体構造
ミオグロビン(図4)は光吸収によりヘムに結合しているO2やCO等のリガンド分子が解離する。その際に余剰エネルギーが熱エネルギーの形で周囲の溶媒へと拡散していく(図5)。
この光解離現象に伴って生じるミオグロビンの非等方的立体構造変形やヘムの余剰エネルギー緩和についてMDシミュレーションによる解析を行っている。このリガンド解離はヘモグロビンにおけるアロステリック効果発現のトリガーであり、タンパク質の機能と構造ダイナミクスの関連を明らかにする上で大きな意義がある。
図5 ヘムからの余剰エネルギー伝達の模式図
【参考文献】
- I. Okazaki, Y. Hara, M. Nagaoka, Chem. Phys. Lett., 337, 151 (2001).
- M. Takayanagi, C. Iwahashi, M. Nagaoka, J. Phys. Chem. B, 111(4), 864 (2007).
- M. Takayanagi, H. Okumura, M. Nagaoka, J. Phys. Chem. B, 114(38), 12340 (2010).
生体高分子のダイナミクスや反応性に及ぼす補償溶質添加効果の理論的考察
図6 エクトインの分子構造
水分子は、タンパク質の構造安定性や、ダイナミクスに重要な寄与を及ぼしている。細胞内の水分子の性質を変化させる要因は様々だが、近年、補償溶質と呼ばれるある種のコソルベント(共溶媒分子)が、タンパク質の立体構造を安定化し、その生化学的機能を保護している事が明らかになった。補償溶質は、細胞が生産する低分子であり、高熱や高塩濃度などの環境ストレスに呼応して細胞内に蓄積される。補償溶質は生体高分子に直接作用せずに、溶媒分子(主に水分子)の性質を変化させることによって間接的にタンパク質等を安定化する。我々は、耐塩性細菌が細胞内に蓄積する補償溶質の代表格であるエクトイン(図6)に着目し、その水分子の挙動に与える影響を調査した。
図7 エクトイン添加によるタンパク質近傍の水分子滞在時間の増加
キモトリプシンインヒビター2(CI2)をモデルタンパク質として行ったエクトイン水溶液中および純水中のMDシミュレーションから、溶媒分子の配位状態や動的挙動に特徴的な違いが現れた。エクトインは、タンパク質と直接には強く相互作用しておらず、エクトイン水溶液中ではタンパク質表面付近やその構造体内部で水分子の滞在時間が大きく増加している(図7)。これはタンパク質の立体構造を安定化する分子レベルの重要な要因と考えられる。現在は、CI2とは対照的に、エンケファリンのように小さく、フレキシブルなペプチドホルモンの水溶液中におけるダイナミクスや反応性に与えるコソルベントの影響を調査している。
【参考文献】
- I.Yu and M.Nagaoka, Chem. Phys. Lett., 388, 316 (2004).
- I.Yu, M.Takayanagi, M.Nagaoka, J. Phys. Chem. B, 113(11), 3543 (2009).
- I.Yu, T.Tasaki, K.Nakada, M.Nagaoka, J. Phys. Chem. B, 114(38), 12392 (2010).
ミオグロビン部分鎖の安定性の研究
図8 共翻訳的フォールディング
タンパク質はmRNAの情報を基にリボソーム上で翻訳される。その際に伸長途上にある部分鎖がリボソームから外へと露出し、部分的な「フォールディング」をするとされている(共翻訳的フォールディング、図8)。実験的にはミオグロビンに似たタンパク質がリボソームに結合したままヘムを取り込むことが示されており、またミオグオビン部分鎖の長さが長ければ長いほどヘリックス構造がより多くなることが示されている。しかしながらこのような断片的な情報しか得られておらず、実際にミオグロビンの共翻訳的フォールディングがどのように進行するのかは詳しくは分かっていない。
そこで部分鎖ミオグロビンの共翻訳的フォールディングの解明への第一歩として、ヘリックスのみから成る結晶構造が部分鎖においてどの程度安定であるのかをMDシミュレーションを実行し調査した。その結果、短い部分鎖ほどヘリックス構造は不安定であるのに対し、長い部分鎖ではヘリックス構造が安定であることが示された。
【参考文献】
- M.Takayanagi, I.Yu, M.Nagaoka, Chem. Phys. Lett., 421(1-3), 300 (2006).
蛋白(タンパク)質
アミノ酸が多数連結(重合)してできた高分子化合物であり、生体内環境において、特定の三次元構造を持つ。代謝、生体内情報伝達、生体構造形成など、重要な生命活動を担っている。連結したアミノ酸の個数が少ない場合にはペプチドもしくはポリペプチドと呼ばれることが多いが、名称の使い分けを決める明確なアミノ酸の個数が決まっているわけではない。
アロステリック相互作用
タンパク質とリガンド分子の相互作用が、リガンド結合部位から空間的に離れた部位の挙動に影響を与えること。タンパク質複合体では、1つのサブユニットに結合したリガンドが他のサブユニットに影響する例も知られている(例:ヘモグロビン)。
残基
タンパク質を構成する基本単位であるアミノ酸1つ1つのこと。アミノ酸残基には20種類が存在し、周囲に水分子がいる状態が安定である親水性残基と逆に周囲に水分子が存在しないほうが安定な疎水性残基に分けることができる。
ミオグロビン
主に筋肉組織中に存在し、酸素分子を血液から受け取り必要となった時点で放出する蛋白(タンパク)質。酸素分子はミオグロビン中に埋め込まれている鉄ポルフィリン分子(ヘム)に結合している。153個のアミノ酸から成り、8個のαヘリックス構造から構成されており、X線結晶回折により初めて立体構造が明らかにされた歴史的なタンパク質である。
補償溶質
極限環境に生息する生物が、環境ストレスから生命活動を守るために細胞内に蓄積する低分子化合物の総称。代表的なものに、トレハロース、スクロース等の糖分子や、プロリン、グリシンなどのアミノ酸(モノマー)がある。補償溶質は、生体高分子に、直接作用することなく、タンパク質などの立体構造を安定化することが、実験的に知られている。
エクトイン
エクトイン(ectoine (2-methyl-4-carboxyl-1,4,5,6-tetrahydropyrimidine))は塩水湖や塩分を含んだ砂漠などの過酷な環境に生息する微生物などがもつ、代表的な補償溶質である。水溶液中では、双性イオン状態(単一分子内でプラスとマイナスの電荷が分離したイオン状態)となり、水分子を強く引き付ける。分子動力学(MD)シミュレーションを用いた当グループの研究によって、タンパク質表面の水分子の拡散が、エクトイン添加によって大幅に遅くなる事が明らかになった。
キモトリプシンインヒビター2(CI2)
さまざまな動植物に含まれる酵素の一種で、インスリンの分泌を促す作用がある。αへリックス構造とβシート構造を含む、小型の球状タンパク質。適度な大きさと、安定な立体構造を持つために、分子動力学(MD)シミュレーションにおけるモデルタンパク質として、頻繁に用いられる。
エンケファリン
5つのアミノ酸からなる小ペプチド(アミノ酸配列:TYR-GLY-GLY-PHE-MET(ここでTYR:チロシン、GLY:グリシン、PHE:フェニルアラニン、MET:メチオニンである。))。神経細胞膜上の受容体タンパク質(オピオイドレセプター)に結合し、モルヒネ同様の鎮痛作用を呈する。水溶液中で、様々な立体構造をとるために、分子動力学(MD)シミュレーションを用いた分子立体構造解析のモデル溶質として頻繁に用いられる。
振動励起
分子の振動状態が、振動がより激しくエネルギーがより高い状態(振動励起状態)へと変化すること。光・熱エネルギー等を与えることで引き起こすことができ、その後の緩和過程について様々な実験的・理論的手法により研究されている。
リボソーム
メッセンジャーRNA(mRNA)の情報を読み取りタンパク質を合成する粒子状分子で全ての細胞内に存在する。真核生物においては40スベドベルグ(S)と60Sの2つのサブユニットから構成されており、各サブユニットも数本のRNA分子と数十種類のタンパク質からなる非常に巨大な分子(RNA-タンパク質複合体)である。近年X線結晶解析により立体構造が判明したため、原子レベルからタンパク質合成機構を解明しようと世界中で研究が活発化している。
フォールディング
種々のアミノ酸が多数鎖状に連結(重合)してできた高分子化合物であるタンパク質が、特定の立体構造(3次構造)をとることをフォールディングといい、タンパク質の機能発現に極めて重要な役割を果たしている。どのようにして特定の構造へのフォールディングが生じているかは極めて重要な研究テーマとなっており、活発な研究が続けられている。
αヘリックス
アミノ酸残基がタンパク質中で右巻きの螺旋(らせん)構造をとっている箇所をαヘリックスという。αヘリックスは、n 番目のアミノ酸残基のカルボニル酸素原子Oと n+4 番目の残基のアミド基 NH が水素結合を形成しているため安定化している。この螺旋は3.6残基で1回転し、側鎖は外側に向かって飛び出している。
βシート
タンパク質を構成する複数のアミノ酸によって形成される特徴的な立体構造のひとつ。並行に隣り合ったペプチド鎖の間で、一方の鎖の N-H(アミド基)の部分が、隣接する鎖のC=O (カルボニル基)の部分と水素結合を形成し、全体として平面構造を形成している。多数の水素結合によって構造が保持されるため、非常に安定している。
側鎖
アミノ酸残基(-NH-CH(-R)-CO-)のうち残基毎に異なっている(-R)の部位。側鎖が水素原子1個だけである最も単純なグリシン、5員環と6員環が縮合した大きなヘテロ環構造を持つトリプトファン、プロトンを放出しやすいカルボキシル基(COOH)を持つアスパラギン酸などがあり、側鎖の違いが残基の多様な性質を決定している。