「生体高分子における化学反応過程とその分子メカニズム」

―分子動力学シミュレーションが拓く非平衡非定常ダイナミクスの探求―

(月刊『化学』、2000年8月号掲載予定記事)

 

名古屋大学大学院人間情報学研究科

物質・生命情報学専攻 物質情報論講座

長岡正隆

 

生体高分子 −非平衡非定常ダイナミクスの格好の舞台―

 

2000年代の化学が1900年代の化学と大きく異なる点がおそらく2つある。第一は化学反応の時間変化(非平衡非定常過程)をより克明に追求することであり、第二は巨大分子、特に蛋白質やDNAなどの生命現象の関わる分子(巨大自由度系)の化学が飛躍的に進展するということ、の2つである。今世紀まで人間が感じ得る時間の流れは遅かった。しかし、分子分光学などの目覚しい進歩により今やテラヘルツの分解能で化学反応が追尾されようとしている1)。一方、現在進行中のゲノム計画に象徴されるように人類は今や最後に残された大きな神秘である“生命”に、研究ターゲットを絞ったかに見える2)。本稿では今まで私達には止って見えていて分からなかった超高速の化学現象や、分子の巨大さ故に微視的な理解を断念せざる得なかった化学的対象の中から、特に生命現象に深く関わる生体高分子における素過程を選んで、分子動力学(MD)シミュレーション3)が明らかにしつつある最新のトピックスを3つ紹介する。

 

一酸化炭素結合型ミオグロビンの光解離に伴う超高速ダイナミクス

 

最近、北川らはピコ秒時間分解アンチストークス共鳴ラマン分光法を用いて、CO結合型ミオグロビン(MbCO)CO光解離の際に生じる余剰エネルギーが、いかにヘムからグロビン部や溶媒(水)に散逸し緩和していくのかを、ヘムの共鳴ラマンバンド強度の時間変化を測定して明らかにした4)。とくに面内振動モードであるν4バンドの減衰には、1.9±0.6ps(93%)、16±9ps(7%)という時定数をもつ緩和過程の二相性があることを見出したが、この事実はミオグロビン内で局所的に生じた振動エネルギーがバンド毎に異なった時定数で緩和することを明示しただけでなく、単一バンドの緩和にも異なる複数の過程が介在するという事実を示している。この実験事実は、今までの観測装置では区別できない“一瞬の出来事”なのである。ところがこの二相性をMDシミュレーションを使って予測していたグループがいた。1987年、Henryらはミオグロビンに可視パルスに相当する運動エネルギーを瞬間的に加えて、その後のエネルギー緩和過程を追跡し、二つの時定数、1-4ps(50%)、20-40ps(50%)を得ていた5)。実は彼らのこの研究がその後のヘムの振動エネルギー緩和についての活発な実験研究を促したのであった。

 

チトクロム酸化酵素におけるコヒーレント反応ダイナミクス

 

電子伝達系は私達の生命活動のエネルギー源であるATP(アデノシン三リン酸)を生産する主たる反応経路である。その最終段階で重要な役割を果たしているのがチトクロム酸化酵素であり、その活性部位にはヘムと銅原子が2個ずつ含まれている。その構造が近年明らかにされる6)と、MDシミュレーションを用いて活性部位(ヘムa3−CuB)で起こる配位子の超高速なコヒーレント反応ダイナミクス(coherent reaction dynamics)が研究された(図1)7)Lambryらはヘム(a3)に結合したCOは光解離後の数百fsで銅(CuB)へと移動し、その際チロシン(Tyr280)とヒスチジン(His276)との間の共有結合の存在が重要であることを指摘した。とくにこの結合はCO運動を周辺環境へカップルさせ、CuB近傍に束縛させるらしい。またCOの最も重要な運動は約90°の回転であり、CuBの最安定部位への結合は300-400fsで完了するとしている。最近、我々はCO結合型ミオグロビンの光解離過程の分子機構においても、COの運動が、余剰エネルギー散逸に大きな関連があるらしいことを見出した8)。この事実はチトクロムc酸化酵素におけるCOダイナミクスとの類似性から注目される。

 

カリウムチャネルのイオン透過の分子機構

 

ここまでMDシミュレーションを用いて明らかにされつつあるヘム蛋白質の関係する非平衡非定常ダイナミクスに着目してきた。しかしMDシミュレーションは平衡状態の性質を原子レベルで微視的に理解するために用いられることも多い。1998年にK+チャネル(KcsA)の結晶構造が決定された9)のを受けて、今年になって分子動力学自由エネルギー摂動法(MD/FEP法)によるKcsAにおけるイオン透過経路(ion permeation pathway)に関する報告がなされた10)。その結果、チャネル内に数個のカリウムイオンが存在している状態が安定で、KcsAが複数イオン伝導機構(multiple ion conduction mechanism)を採用しているらしいことを明らかにした(図2)。さらに可能な伝導経路を調べると、最も安定な経路が自由エネルギー的に約5 kcal/molだけ異なった、たった二つの主要状態の間の遷移であることが示唆された(図3)。イオン透過機構における選択性フィルターの機能が、その三次元的構造と直接結びつけて定量的に議論された点が高く評価され、今後、他の生体高分子の機能についても、こうした手法による解明が進むものと思われる。

 

非平衡非定常ダイナミクスを解明するMDシミュレーションの大きな可能性

 

本来、蛋白質や凝集反応系などのダイナミクスには、@関与する自由度の多さ(大自由度性)、A自由度内やその間の非線形性、B各自由度を特徴付ける時間スケールの大きな齟齬、により、非平衡性非定常性が現象の本質に深く結び着いている。近年のMDシミュレーションを用いた研究は、こうした3つの特徴が生体内高分子のもつ機能に大きな役割を果たしていることを明らかにしてきた。マクロなレベルでの機能に結びついたミクロなレベルでの非平衡非定常性の理解を深めるためには、大きな分子変形が伴う生体内分子や凝集系における化学反応は打ってつけのプローブである。そこには一見熱平衡状態にみえるマクロなレベルからは想像もつかないダイナミックな状態がミクロなレベルで実現している。今のところ分子動力学シミュレーションは生体高分子などの非線形大自由度系11)を真っ向から取り扱い得る唯一の方法なのである。多くの若い挑戦者の参加を願う。


参考文献

 

例えば、日本化学会編、季刊化学総説、第44号「超高速化学ダイナミクス」 (学会出版センター、2000)。

1)例えば、月刊『化学』(化学同人)、2000年4月号、特集記事「ヒトゲノム解読目前!」。

3) 分子動力学シミュレーションの基礎については、例えば、岡崎進、“コンピュータケミストリ−の基礎”、月刊『化学』(化学同人)第52巻(1997年)の連載記事やその参考文献を参照。

4) Y. Mizutani and T. Kitagawa, Science, 278, 443 (1997).

5) a) E. R. Henry, W. A. Eaton and R. M. Hochstrasser, Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A., 83, 5367 (1986). b) T. Lian, B. Locke, Y. Kholodenko and R. M. Hochstrasser, J. Phys. Chem., 98, 11648 (1994).

6) S. Yoshikawa, K. Shinzawa-Itoh, R. Nakashima, R. Yaono, E. Yamashita, N. Inoue, M. Yao, M. Fei, C. Peters Libeu, T. Mizushima, H. Yamaguchi, T. Tomizaki, T. Tsukihara, Science, 280, 1723 (1998).

7) a) U. Liebl, G. Lipowski, M. Nėgrerie, J.-C. Lambry, J.-L. Martin and M. H. Vos, Nature, 401, 181 (1999). b) J.-C. Lambry, M. H. Vos and J.-L. Martin, J. Phys. Chem. A, 103, 10132 (1999).

8) I. Okazaki, Y. Hara and M. Nagaoka, submitted for publication.

9) D. A. Doyle, et al., Science, 280, 69 (1998).

10) J. Åqvist and V. Luzhkov, Nature, 404, 881 (2000).

11) 生体高分子以外での非線形大自由度系の非平衡非定常ダイナミクスの研究や、その物理学的意義や関連性などについては、基礎物理学研究所の研究会報告(長岡・戸田ら編、『物性研究』、第73巻 第1号 (1999))を参照。


図の説明文

 

図1 コヒーレントポピュレーション移動の運動学と提案されたそのメカニズム。

A) 基底状態における非配位ヘムa3のポピュレーション分布。緑色点の曲線は装置の応答関数。

B) 反応座標に沿った初期反応ダイナミクスの簡易スキーム。50fs以内での励起状態ヘムa3の生成によって、波束が反応座標に沿って進む。基底状態への交差領域へは半周期後(350fs)に到達する。第一通過で、分布の80−90%が基底状態へ緩和し、残りの10−20%はその後の通過を待つ。

C) MDエネルギー最小化に基づいて提案されたヘムa3−CuBにおける対応ダイナミクス。

 

図2 溶媒和KcsAチャネル(4つのサブユニットのうち1つは細孔を見えるようにするために削除されている)。 細胞壁外側近くのフィルター領域では、双極子モーメントをもつ骨格カルボニル基群が〜12Åの長さにわたって細孔側に配向し、透過するイオンの安定化をもたらす。 フィルター下の中心空孔は多くの水分子(約30個)を収容することができ、実験的に測られた空孔領域での拡散電子密度は溶媒和イオンの存在を示唆している。 図の構造では、2つの水分子(赤球)、選択性フィルターにおける2つのイオン(青球)と水で満ちた中心空孔での1つイオン(青球)が示されている。 すべての計算は、チャネルを円柱模型の脂質膜に埋め込んだ状態で実行された。

 

図3 状態1010(1)から状態0101(1)への一列運動の自由エネルギープロファイル(平均力ポテンシャル)。 このプロファイルは、2状態の配置の間の空間領域3-4Åを張り、2つのフィルターイオンが細孔に沿うような、50の異なった面に対して連続して拘束をかけて計算された。 この過程で1つの水分子が選択性フィルターから空孔へ押し出されて、予想されるように、新しい水1分子が自発的に外部からフィルターに入る。